10年経って振り返る東日本大震災の記憶

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10年経って薄れゆく東日本大震災の記憶


 2011年3月11日に発生した東日本大震災から10年以上が経ち、あの頃の記憶が薄れつつあるように感じたので当時感じていたことを、記憶を辿りながらまとめます。



当時の私


 まず当時の私の状況について。


 2011年3月当時、私は京都府京田辺市にある同志社大学の1回生でした。2回生になる前の春休み中で、ちょうど東京の実家に帰省している時に東日本大震災が発生しました。


2011年3月11日 地震発生当日


 震災発生当日の記憶を辿ります。


都内の実家で長い揺れを感じた


 春休みで東京の実家に帰省し、その日は特に予定も無く、居間で「ミヤネ屋」を見ながらノートパソコンを開いて株価を見ているところに大きな揺れを感じました。


 これまでに感じたことの無い大きな揺れが、これまで感じたことが無い長い時間(数分)に渡って続き、恐怖を感じました。揺れている間、外から「ごろん」という大きな音が聞こえ、また室内の食器棚がカタカタと音を立てながら揺れました。当地では震度5弱の揺れを観測しています。


 東京で大きく揺れている間に、テレビでは宮根誠司氏が「大阪のスタジオも揺れています」と繰り返し興奮した様子で叫んでおり、スタジオの天井から吊るされた機材が大きく揺れている映像がテレビ画面に映し出されているのを見て「これは大変なことが起きている」と直感的に感じました。


 揺れを感じている間も日経平均株価をチェックしていましたが、揺れが始まった14時46分までは前日比で上げていた日経平均が、揺れている間にマイナスに転じた記憶があります。前日からわずかに下げたところで、15時にその日の取引が終了しました。


2013年相馬市

2013年相馬市

 揺れが収まり外に出ると、庭にあった高さ2.5mの石づくりの大きな灯籠が倒れ、玄関タイルを破壊していることに気づきました(揺れの間に聞こえた「ごろん」という音の発生源) ちょうど通路に倒れかかっていたので、人がいたら命を落としていたかもしれません。建物に被害が無いか一通り確認した後、部屋に戻るとテレビでは「建設中のお台場のビルから煙が上がっている」と宮根誠司氏が興奮した様子で繰り返していました。


 その日は春の日差しが穏やかな、3月上旬としては暖かな昼間だったと記憶(当時の東京は最高気温11度、晴れとの記録)していますが日が暮れるとコート無しではしのげない寒さでした。


印象に残っている当日のニュース



 記憶にあるもので、当時の記録と照らして3月11日のニュースであると確認できたものをまとめました。一部、11日でないニュースも記憶に混在しており、それは除外しました。


 震災当日は鉄道各社が首都圏で運転を見合わせ、JR東日本は山手線などの終日運転中止を発表したことでTwitterなどではJRへの落胆の声が多く見られた記憶が。友人たちのTwitterでも、「帰れない」といった声が多数。後々話を聞くと、サークル活動で大学に行っていた人たちは講堂などで一夜を明かしたとのこと(首都圏の鉄道の多くは翌日に運行再開)


 また、都内の幹線道路では夜になると徒歩で帰宅する人々が歩道から溢れているとのツイートも多数見られたが、外に出られるような状況ではなかったため、その日は自宅敷地から一歩も出ずに終了。


 時間が経つにつれ、徐々に東北沿岸部で大きな被害が発生していることが少しずつ伝わってきた。


2013年石巻市にて

2013年石巻市にて

3月12〜16日


 発生翌日以降の記憶。


手に入らない生活必需品


 生活必需品で手に入らないものがあった。



 これらの商品はスーパーの店頭から早々に消え、その後私が東京をあとにする17日まで復活することは無かった。一方、生鮮野菜や肉などは普段より若干の品薄感はあったが、調達に困る状況には無かった。


 電池は大型スーパーで単4電池が若干数、店頭に並んでいた。電池スペーサーがあれば懐中電灯などでも利用できたと思う。カップラーメンは「辛ラーメン」と「豚キムチ」を残して全ての棚がカラで、店員が補充に来ると客が群がるような状況だった。辛いカップラーメンを残せる「選り好み」出来るなら、食料はまだ大丈夫だという妙な安堵感。


震災後備蓄するようになった電池スペーサー

震災後備蓄するようになった電池スペーサー

 12日は土曜日、13日は日曜日ということもあってか、普段スーパーでは見かけない私服姿の現役世代の男性の同伴が目立った。老夫婦がカゴから溢れんばかりのパンを買い求めていたのが印象的だったが、少なくない客がカゴにいっぱいの食料品などを買い込んでいた。


 親戚が経営する近所のガソリンスタンドは日に日に状況が悪くなり、記憶が定かではないが15日頃には給油は「緊急車両のみ」との看板を立てて一般営業を休止していた。レギュラーかハイオクのどちらかが品切れとなっていた日もあった記憶もあるが事実かどうか定かではない。


 花粉のシーズンだったが不運にもティッシュペーパーがストック切れ、何軒ものスーパーとドラッグストアを回ったが入手できず断念。


2012年に訪れた会津若松

2012年に訪れた会津若松

連日続く緊急地震速報エリアメール


 余震が相次いだ。夜、寝ていると携帯電話(当時はスマホではなくスライド式のガラケーを使用)に緊急地震速報のエリアメールが毎晩のように、何通も届いた。エリアメールの着信に加え、大きな余震で目が覚めることも何度かあったと記憶。


高まる電力不足の懸念


 資料を調べると、12日から東日本で電力不足の懸念が高まった。12日には「計画停電」の実施が発表された。


 「いつ停電するのか」を確認するため、東電のホームページを確認するもアクセス過多のせいか閲覧が難しい状況。他のサイトにコピーされた東電のPDFを確認するも、1時間後には全く異なった内容が記載されたPDFを確認。状況が二転三転し、Twitter上にも怒りの声が多数。最初に見たPDFには当地についても輪番停電のグループ分けの中に記載があり、停電が計画されていた様子が窺えた。


 その後、私が住む東京23区は荒川区など一部の地域を除いて計画停電の「対象外」との情報が届くも、これまで二転三転したため何が本当なのか確信が持てず。その後、23区は計画停電は実施されなかったが、横浜市や川崎市に住む友人たちからは「不便」「東京だけずるい」との声が多数Twitterに寄せられたのを確認。実家は揺れの影響も含め、一度も停電することは無かった。


 電力需給の改善に貢献するため、庭の屋外灯は全て消灯(2011年夏に帰省した際も消えたままだった)、室内灯もシーリングライトを消灯しLEDのダウンライトのみ、エアコンも全て消し、代わりに床暖房(都市ガス)の温度を最大まで上げた。夜は冷える時期だったが、床暖房のおかげで寒さを感じることは無かった。LED電球を買い求める人が増え、2011年はLED電球の価格がみるみる下がったと記憶。以前は1球4000円近い値段だった記憶。


原子力事故の影響


 日に日に状況が悪くなり、多大な恐怖を感じた。当地は原発から200Km以上の距離にあるが、事故から数日後には首都圏への影響も取り沙汰されるようになった。我が家は不動産賃貸業を営んでおり、融資の返済はおろか今後の生活さえもままならなくなる懸念から、背中がヒリヒリと焼けるような感覚に襲われたと記憶。


 13日頃から犬の散歩を毎日行っていたと記憶しているが、外出する人が普段と比べて大幅に減り、街が閑散としていた。新型コロナ蔓延初期の2020年春よりも、地元の人出は大きく減っていたと記憶。だが大型スーパーは人でごった返していた。普段は買い物に来ない中高年男性の同伴が目立った。


2011年3月17日頃 京都に退避


東京駅からガラガラの「のぞみ」に乗車


 17日(記録が残っていないため、その前後プラスマイナス1日の可能性も)の朝5時台、両親に叩き起こされる。原発の状況がまずいため京都に戻るよう促される。


 3月下旬までの滞在予定を切り上げ、慌てて荷物をまとめて朝8時頃には家を出発。原発の状況によっては、地元に戻るのも両親に会うのも最後になると覚悟した記憶。


 平日午前にしてはとても空いている山手線に乗車。着席は出来ないが、立っている客は少ない。スーツ姿の人は少なく、大きなスーツケースを持っている人も何人かおり普段と全く異なる景色。


 「西へ逃げる人で新幹線が大混雑」というニュースを数日前に目にしていたので、普段乗ることが無い指定席券を購入。だが乗車した「のぞみ」は新横浜を過ぎても同じ車両に乗客は私を含めわずか3組。赤ちゃん連れのお母さん(東京駅のホームでお父さんが見送りに来ていた)と、高校生くらいの少年。平時であれば、スーツ姿の乗客を中心に混雑し、新横浜からは3列シートに3人座っていてもおかしくない列車だが、閑散としていた。


 熱海を過ぎる辺りまでは、とても緊張していたが、熱海を過ぎた辺りからは緊張の糸がほどけ、どっと疲れが出た記憶。東京を「脱出」したことへの後ろめたさから、Twitterや当時まだよく使っていたFacebookなどへの投稿は一切行わなかった。


 新幹線の車中、高速道路(東名?)と並走している区間で赤色灯を焚いた消防車両の一団を2回見た記憶。被災地へ向かったのだろうか。乗車したのは富士山側の席だったと記憶。


京都着、大学の友人2人と昼食


 無事に京都に到着。京都に戻ったことを伝えると、青森出身の友人が「話を聞きたい」とのことなので、京田辺の学食で昼食。カップラーメンが買えない、緊急地震速報で毎晩目が覚める、外を歩いている人が少ないなどの情報を伝えると、福岡出身の友人と共に2人で驚いたようす。


 昼食後解散し、晩ごはんの食材を買いに平和堂(スーパー)へ。一部商品は品薄になっていたと記憶しているが、東京のスーパーと違って飲料水を含め品切れはほぼ無し。飲料水は「一人2本まで」といった形で購入制限が設けられていたと記憶。記憶が曖昧な部分があるが、ヨーグルトの品薄感が数ヶ月続いた印象。


 街の空気も東京とは違い、平常に近い感じ。距離が離れると、これほど変わるものなのかと驚いた記憶。テレビは東京と同様に「ポポポーン」ばかり流れていた。


円山公園のしだれ桜

円山公園(京都市)のしだれ桜(2011年4月11日)

「エア被災地」と呼ばれた東京


 Twitterなどネット上では東日本大震災当時の東京を「エア被災地」と呼んで揶揄する風潮が見られました。


 エア被災地とは、被災していないにも関わらず被災したかのように振る舞っている、という批判が込められた言葉です。


 確かに、津波や原子力災害による被害、揺れの影響で家屋への影響が大きい地域と比べれば、東京での被害は些細なものと言えます。震災から10年が経った今も、故郷への帰還を果たすことが出来ていない人がおられるのも事実です。


 しかし、この記事に書いたように当時の東京でも様々な苦労があったのも事実ですし、亡くなった方も都内で7人おられます。我が家では灯籠の倒壊による被害額は数十万円程度、またマンションの高層階に住んでいた友人らは食器が割れる、あるいはエレベーターの停止により外出が難しくなるなどの影響を受けた人も少なくありません。


 当時多く聞かれた「エア被災地」という批判に対して反論したい気持ちもありましたが、当時はそのようなことを口に出せるような「空気」ではなかったと記憶しています。




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